野太刀自顕流の歴史
【神代の神剣から人世の神剣】
野太刀自顕流のルーツを辿れば 、大伴氏の始神・天忍日命(アマノオシヒノミコト)が、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨に際して武装随身し、常に先頭に立ち、神の剣技を以て御守りし、霧島の高千穂峰に降臨遊ばされました。
天忍日命の四代の孫、道臣命(ミチノオミノミコト)は、神武天皇の東征に際して皇軍に従い、大和征伐で殊勲を立てました。これにより、大和朝廷以来の武門の名家、大伴氏となります。
武日命(オオトモタケヒノミコト)は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の遠征に吉備武彦と共に従軍。日本武尊から靫部(弓矢を入れる道具を背負う者たち、即ち、兵士のこと)を下賜されています。
また、奈良時代には、大伴氏が遣うその技は「野太刀」と称していました。有名なところで、征隼人持節大将軍に任命された中納言大伴旅人や陸奥按察使持節征東将軍で万葉集歌人の中納言大伴家持です。
「続日本書紀」によれば和銅三年(710)正月一日に元明天皇御出征の下 左将軍大伴旅人らが騎兵を連ねて行進したとの記述 。
養老四年には、大宰府が都へ発した「隼人の反乱」の情報を受け征隼人軍の編成、同年六月十七日条に載せる「大将軍大伴旅人を慰問する詔」には、五月中旬に南九州で、激しい戦闘態勢に入っていた事が分ります。
この反乱は、数千人の隼人勢が7箇所の城に立てこもり、1年半に渡って抵抗を続けた大きな反乱で、最初の5箇所の城を攻略して、残りの城の攻略を長期戦の持ち込む作戦に切り替えた8月12日、これからの事を副将軍たちにまかせて旅人は、戦線を離脱都に戻ってきていますが、これには太政官筆頭 藤原不比等の死去が大きく影響していたといわれます。
伴姓肝付家系図 家紋・・・定紋で鶴紋を使用。
高皇産霊尊-天忍日命-天津彦日中咋命-天津日命-道臣命-味日命-雅日臣命-大日命-角日命-豊日命-健日命-武持-室屋-談大連-金村大連-磐-昨子-長徳(馬飼)-安麻呂(宿禰)-旅人-家持-古麻呂-継人-国道(伴と改姓)-善男-中庸-兼遠-兼行(薩摩国へ下向) 下記に続く
【主な伴姓肝付氏族と家紋】
1.肝付氏…二重子持ち亀甲に嘴食対い立ち鶴・対い鶴・対い鶴喰若松・ 鶴の丸・頭合わせ三つ雁金・尻合わせ三つ雁金・丸に三つ結び雁金
2.萩原氏…嘴合わせ三つ雁金・丸に尻合わせ三つ雁金・隅切り平角に二つ 雁金・三つ割り木瓜
3.薬丸氏…結び雁金・頭合わせ三つ雁金・丸に抱き柏・三つ巴
4.安楽氏…鶴の丸・頭合わせ三つ雁金・丸に結び雁金・石持ち地抜き雁金・尻合わせ四つ結び雁金
5.和泉氏…丸に木瓜
6.梅北氏…鶴の丸・丸に梅鉢・丸に梅の花
7.救仁郷氏…不明
8.北原氏…頭合わせ三つ雁金・丸に梅鉢
10.検見崎氏…不明
11.前田氏…頭合わせ三つ雁金
12.岸良氏…頭合わせ三つ雁金
13.野崎氏…対い鶴・頭合わせ三つ雁金・三つ雁金
14.津曲氏…鶴の丸・対い鶴・影糸輪に三つ光琳鶴・頭合わせ三つ雁金・頭合わせ三つ結び雁金・尻合わせ三つ雁金・三羽飛び雁金
15.波見氏…頭合わせ三つ雁金
16.河南氏…丸に四方木瓜
17.小野田氏…頭合わせ三つ結び雁金・丸に雁金
18.鹿屋氏…丸に結び雁金
19.山下氏…頭合わせ三つ雁金
20.川北氏…不明
21.頴娃氏…不明
22.橋口氏…対い鶴・丸に雁金・頭合わせ三つ雁金
23.山口氏…丸に雁金・頭合わせ三つ雁金
【伴氏~肝付氏~薬丸氏へ】
大伴家後裔である伴兼行は、冷泉天皇の安和元年(968)、薩摩掾に任ぜられて、薩摩国へ下向し、鹿児島郡神食村(鹿児島市伊敷町)の館で、事務を執り、家伝の野太刀流を伝えました。
曾孫の兼貞の代になると、大隅国肝属郡弁済使、三俣院(宮崎県都城市)領主、神柱宮祀司(宮崎県都城市)を兼ねることになります。そして、彼の死後、5男兼高が梅北氏を興し、神柱神社の神事を管掌します。
兼貞の嫡男兼俊は、本家のある高山(鹿児島県肝付町)に移り、「伴」から「肝付」と名を改め、肝付氏の始祖になります。
肝付家は、大隅地方の土豪族として発展していくわけですが、2代肝付兼経の時、肝付水軍としても頭角を現していきます。
東南アジアに進出して貿易を盛んにしていた「倭寇」としての横顔はあまり知られておりません。
倭寇の勢力を確固たるものにした要因の一つに「倭寇の大太刀」は、よく知られていますが、この大太刀こそ、伴兼行が伝えた家伝の「野太刀」の技、つまり野太刀自顕流だったのです。
8代肝付兼重は、後醍醐天皇の勅命を奉じて、野太刀流を以て、挙兵し、南朝方忠臣として活躍しました。
これで、肝付家も安定期に入り、三俣院と大隅地方を治めていきます。これが、野太刀自顕流が公に勤皇の誠を尽くした始まりでもあります。
時代は流れ、戦国の世になると、肝付氏家老であり、肝付家一族でもある名将で知られた薬丸兼将が出てきます。
永禄元年(1558)恒吉の宮ヶ原(鹿児島県曾於市)では、16代肝付兼続が北上し、島津氏分家筋の北郷時久及び島津忠親軍に大勝し、肝付方は勢いに乗ります。
永禄3年(1560)肝付兼続が鹿児島に出府し、島津貴久の接待の返礼として館に招いた際に、酒宴を催します。島津氏家臣・伊集院忠朗が、薬丸兼将に「鶴の吸い物を頂戴できなかったのは何より残念でたまらない」と戯れを言ったところ、即ちに言い返すと、激怒した伊集院忠朗は、張り廻された鶴紋(肝付家の家紋)の首を斬り落としてしまいます。
肝付兼続は、憤怒し、永禄4年(1561)島津家と決別し、島津氏の要である廻城(鹿児島県霧島市福山町)を攻め入ります。
島津方も島津忠良(日新斎)、貴久、義久の三代と忠将(貴久弟)など島津一族総出で出陣しますが、劣勢に立たされ、島津忠将を失ってしまいます。
兼続は、義弟にあたる忠将の訃報を聞くや否や、同情し涙を流して優勢な状況にも関わらず、和睦を結び廻城を明け渡し、撤退してしまいます。
この戦が、今後の肝付家存亡の運気を逸したといえるかもしれません。
【戦国大名・肝付氏族の悲運、そして島津家傘下で】
天正元年(1573)今度は、志布志地頭・肝付竹友を将とし、志布志、松山、福島(串間)の郷土武士団の大軍を率いて、島津方の北郷時久を討たんとして都城方面へ向かいます。
国合原(鹿児島県曽於市末吉町)にて双方激突しますが、北郷軍に不意を突かれ大敗。肝付軍の戦死者は400余人に上ります。
これで、島津氏との勢力図式は、決定的なものとなります。
500年にもおよぶ肝付氏と島津氏との抗争で、遂に肝付氏は敗れ島津氏傘下に入ることになります。
肝付氏と島津氏(北郷氏)が大戦をした国合原の戦い古戦場跡(鹿児島県曽於市)
国合原の戦い古戦場跡(曽於市)付近にある大将・肝付竹友の墓
しかし、肝付家領土は安堵されるも、伊東氏に心寄せるものとして島津家に疑われてしまいます。
18代肝付兼亮は、その疑いを晴らす為、飫肥の伊東氏とニセの戦を持ちかけ、志布志にて合議します。そして、天正4年(1576)津屋野(宮崎県日南市南郷町)に出動。
櫛間地頭(宮崎県串間市一帯)である薬丸湖雲兼将を大将とする肝付勢は、無鉄矢、空砲で撃ち掛けるも、伊東軍の末端までうまく命令が伝わっておらず、真の矢銃を使われ、薬丸湖雲兼将をはじめ300余人が戦死してしまいました。肝付方の将兵の損傷著しく、所領は居城の高山を残し、すべて島津氏に属することになりました。
天正8年(1580年)19代肝付兼道(兼護)は、遂に薩摩の阿多(鹿児島県南さつま市)に移封され、肝付家一族や家臣もまた薩摩・大隅・日向に分散してしまいました。500年余年に及んだ肝付氏の支配は終わりを告げます。
島津氏家臣となった肝付本家の兼道は、関ヶ原の戦い(1600年)で島津義弘に従うも戦死。その長男・兼幸も島津氏家臣として琉球侵攻上洛した帰路で難破し溺死。
これにより肝付本家の血筋は、兼幸に子もいなかった為に事実上の断絶となりました。
肝付氏族であり薬丸兼将の孫・兼成壱岐守は、肝付本家とともに島津氏の家来となります。
特に、薬丸兼成(壱岐守)は、先祖伝来の野太刀の達人として家中で名高く、島津氏の九州統一戦、朝鮮の役、庄内の乱、関ヶ原の戦いと、島津氏の重要な合戦の多くに参加し、家伝の野太刀の技を以て、多くの武功を立てていきました。
その数多くある武功話の中には,朝鮮の役の際、すでに白髪の老人であったが、名高い武功者だったので召集されました。
慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原の戦いでは、敵中突破の後に、主君島津義弘と共に堺への退路をたどり、伊賀上野城下を通る際「島津兵庫まかり通る」と大声で名乗って、堂々と通過するほどの豪の者でありました。
本隊が薩摩に帰着して半年位経ってから帰国した等、挙げれば尽きることはありません。この人こそが、野太刀自顕流の中興の祖であります。
大友の大軍を破った高城合戦(耳川の戦い)では、初陣だった18歳の東郷重位(瀬戸口藤兵衛)が、剛勇名高い薬丸兼成(壱岐守)を親分と頼み、介添え役として、手柄を立てたというものがあります。
東郷重位は、島津家(薩摩藩)の御留流である示現流の開祖であり、その後、初代藩主島津家久の指南家になります。
そして、兼成(壱岐守)の孫薬丸兼陳は、肝付家先祖伝来の野太刀流を修めるとは別に、元和6年(1620)示現流の門弟になります。
これにより、東郷家と薬丸家との深い繋がりはこの縁になっていきます。
【野太刀流から野太刀自顕流へ】
兼陳の示現流は、格別の上達を見せ、ついには五高弟の一人に数えられるまでになります。
この後、薬丸家は代々東郷家の高弟となり、示現流を盛り立てていきました。しかしながら、代々の薬丸家当主は、修めた示現流とは別に、先祖家伝の野太刀流を大切に代々伝え、なお一層磨きをかけて独自の流儀へと仕上げていきます。
そして、江戸後期の薬丸兼武(長左エ門)に至り、「自顕は我にあり!」という強い意志のもと、遂に示現流へ決別を表明し、家伝の「野太刀の技」「野太刀流」を以て、「野太刀自顕流」を起こしました。
兼武は、猛訓の結果、剣聖と言われるようになり、気合いの声や打ち込みの音を聞いた人々は、身の毛がよだったと言われています。
しかし、示現流を拒否して受け付けず、また示現流の弟子移動問題も重なり、島津家の怒りに触れ、屋久島へ流刑となってしまいます。
子の薬丸兼義(半左エ門)の代になって、薩摩藩家老・調所広郷(笑左衛門)の取り立てもあり、ようやく薩摩藩の剣術師範家として認められます。
兼義もまた剣名高く、多くの弟子を育てました。野太刀自顕流は、郷中教育に取り入れられ下級藩士を中心に伝わり、薩摩の剣技として、その実力はすぐに開花します。
幕末の桜田門外の変、生麦事件、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、そして、明治10年の西南の役では、薩摩出身者が敵味方に別れ、双方で野太刀自顕流が深く関わり活躍しました。
新選組の近藤勇は、「薩摩とは初太刀を必ず外せ」と隊員に訓示していた。
また、戊辰戦争に従軍した薩摩兵士のエピソードとして、人聞きで知った野太刀自顕流をもって、江戸上野彰義戦で直心影流の剣士と対戦した。本人も切られると思い、無心に斬り込むと敵兵が斬られて倒れていた。これで要領を得て斬り込むと次々と敵兵が切れた等々。最強の剣術だったことが垣間見れる。
門弟たちの中から明治維新の元勲が数多く出たため、野太刀自顕流の流儀名は日本国内で高名になり、「明治維新は野太刀自顕流(薬丸流)で叩き上げられた」と云われるまでになりました。
野太刀自顕流の剣士としては、幕末の頃、人斬り四天王と恐れられた、人斬り半次郎こと中村半次郎(桐野利秋)と田中新兵衛、島津藩軍師天才肌とされ倒幕で活躍した伊地知正治。
鹿児島県令の大山綱良(格之助)、生麦事件に関わった奈良原喜左衛門と海江田信義、桜田門外で井伊直弼の首を斬り落とした有村次左衛門、西南戦争の勇将・篠原國幹や辺見十郎太、日露戦争で活躍した東郷平八郎と大山巌(弥助)、西郷隆盛の弟・西郷従道(信吾)など当流門人は数えきれません。
鳥羽伏見の戦い
明治十年の西南之役において、薩摩軍の士気は旺盛であり、特に抜刀術(野太刀自顕流)の活躍はもの凄く、官軍の陣地に突入して、バッサバッサと敵方をなぎ倒していきました。
近代兵器を揃えている官軍は、ジゲンリュウ独特の甲高い声(猿叫)を発して突撃すると、その声を聞いただけで一目散になって逃げ去ったと伝えられています。また、薩軍が官軍に斬り掛かり、それを官軍兵士が銃剣で止めたものの、右肩から切り下げて殺して了った。又は、斬り込みを何とか止めたものの、受けた刀(ミネ側)ごと額にのめり込んでいた等、一撃必殺剣の実力が垣間見れます。
官軍は、薩軍から日本刀で激しく斬られた仲間を見て怖気づく兵士も多ったと云われています。接近戦で薩軍は、この野太刀自顕流が多く使われ、官軍は離れた位置から弾丸を浴びせるしかなかったそうです。
武士の世が終わった近代に入っても当流は継承され、日本陸軍学校・戸山学校において当流剣技の研究が進められ、居合術戸山流の土台を形成しました。
日清・日露・太平洋戦争において、実戦重視の野太刀自顕流が、白兵戦で実力を発揮し、敵兵を震え上がらせたと云われております。
【殺人剣から活人剣へ、そして未来へ】
代々、薬丸家に伝承した野太刀自顕流も、後継者として期待された第十二代兼吉の長子兼教が沖縄戦で戦死し、薬丸本家が断絶してしまいます。また戦後のGHQ武道禁止令や武道人口の減少で衰退の途にかかります。
これに対処すべく再度の復興を期して、昭和32年に野太刀自顕流薬丸本家最後の当主・薬丸兼吉の了解のもとで、高弟奥田真夫師範が中心となって鹿児島県下で学校教員への講習会や学舎での稽古指導などで精力的に伝導されました。
古流儀である野太刀自顕流には神世から連なる流祖伝来の技が残されております。これらの技は先達が文字通り「命がけ」「血」の滲む思いで残されたものであります。
先達の爪の先ほども稽古を積んでいない現代の我々が、勝手な自己解釈や理論付けなどで何百年の歴史と伝統の技を改「悪」しようなどという破廉恥な行為は、古武道の世界では絶対に許されるものではありません。
流儀に対する正しい信念と確固たる稽古への覚悟を持って修行に臨む者であれば、我が身、我が技量が如何なるものか理解できることと思います。
昨今の古武道界の風潮を他山の石とせず、我々自顕流修行者も厳しい技、訓えから目を逸らし逃げることなく、常に我が心に問い戒め修行稽古に専念するべきではないでしょうか。
「野太刀自顕流兵法会」は、11代薬丸兼文宗家から奥田真夫先生が学ばれ、その高弟であり愛弟子の別府修一師範に、肝付氏族家伝の遺し託された技と教えが継承されています。
私たちは、古武術の厳しい技に逃げることなく稽古し、未来へ伝え遺していきます。